1984年(昭和59年)6月14日、東京蔵前国技館で第2回IWGPの優勝戦が開催されました。
優勝戦に進出したのは、アントニオ猪木(41歳)とハルク・ホーガン(31歳)。前年の第1回IWGPの優勝戦と同じ組み合わせです。前年度、猪木は、ハルク・ホーガンのアックス・ボンバーで場外失神KO負け。第2回IWGP優勝戦は、猪木の一年越しの壮大なリベンジ・マッチという様相を呈し、新日本プロレスの社運を賭けた大一番でした。
午後8時20分にゴング。15分過ぎに両者場外へ、そこでハルク・ホーガンがブレン・スターを敢行し、17分15秒両者リングアウト。
協議の結果、時間無制限の延長戦が決定。しかし、2分13秒、再び両者エプロン・カウントアウト。
さらに延長戦に突入するも、すぐさま、またまた両者場外に。そのときリング下にいた、当時維新軍のリーダーとして猪木と敵対していた、長州力が猪木、ハルク・ホーガンに立て続けにリキ・ラリアットを炸裂させる暴挙に。最初にリキ・ラリアットを受けた猪木は、ホーガンが長州力と相打ちになっている」隙にリングイン。再々延長戦3分11秒リングアウト勝ちで、アントニオ猪木派、念願のIWGPで初優勝を飾りました。
しかし、この結果に激怒した観客が暴走、ファンの鎮圧に蔵前署から警官18人が出動した、通称「蔵前暴動」と呼ばれる新日本プロレスの最初の大暴動事件となりました。
●誰が「長州力乱入」のアイディアを考えたのか?
『新日本プロレス10大事件の真相』(宝島社発行)によると、アントニオ猪木だそうです。
●それぞれの反応
ミスター高橋(レフリー)
「『エッ、ちょっとそのアングルは…』と思ったそうですが、オーナー社長でトップ選手の猪木さんにモノは言えませんでした」
長州力
ミスター高橋から猪木のアングルを伝え聞くと「これ高橋さんが作ったの?」
「猪木さんだよ」との返答を聞くと「そうですか。じゃあ、やるより仕方ないですね」
なぜ、このようなことが起こったのか、まず「ハルク・ホーガンの価値が急騰してしまった」からだと思われます。1982年に『ロッキー3』への出演でプロレス以外でも名前の知られたハルク・ホーガンは、1984年1月23日、この第2回IWGP優勝戦の5カ月前には、アイアン・シークを破って第11代WWF世界ヘビー級王者になっており、猪木といえども、もう簡単に勝利をお願いできる存在ではなかったということではないでしょうか。そして苦肉の策が、延長、再延長によるリングアウト勝利。しかも普通のリングアウト勝利じゃ、盛り上がらないという方程式ではないでしょうか。
当時、中学生の僕は「長州力、なんてことしてくれるんだッ!」と激しく罵ったものですが、長州力自身の意志でなかったのなら、悪いことをしてしまったなと思う今日この頃です。でも、アントニオ猪木も悪いことしたなと思ったのかもしれません。日本人選手で猪木にシングル戦で2度のフォール勝ちしたレスラーは、長州力しかいません。信じるか、信じないかのお話でしたが、「新日本プロレス3大暴動事件①第2回IWGP優勝戦での長州力乱入」でした。