徳川幕府将軍への道
「暴れん坊将軍」「米将軍」「江戸幕府中興の祖」などと呼ばれる
将軍になれた確率がスゴいと思う。
それは、4代将軍の家綱や、5代将軍の綱吉と同じで、
血統的には、問題ないのだが…。
・まず藩主となる
徳川吉宗は、
徳川御三家のひとつ、
紀伊徳川家の4男として生まれた。
兄や兄の子どもたちが全員、亡くならなければ、
紀伊藩主の座は、掴めない存在だ。
勿論、
4男以下で、将軍になった人は、
5代・綱吉、7代・家継、13代・家定、14代・家茂、15代・慶喜と
5人もいる(33.3%)から、
決して珍しいことでは、ないのだが…。
1705年5月、吉宗22歳のとき、
第3代紀伊藩主になっていた長兄・綱教が41歳で急死、
子どもは、いなかった。
8月に、父の光貞が80歳で亡くなった。
このとき、次兄は、すでにこの世になく、
残すは、3番目の兄、ただ一人。
そして、9月、
第4代藩主になったばかりの
頼職が急死した。
子どもは、いなかった。
5か月の間に親兄弟3名が亡くなる、内2名は、継承権上位者。
吉宗は、晴れて5代紀伊藩主となった。
・そして、将軍へ
1716年、吉宗33歳のとき、
徳川幕府7代将軍・家継が8歳でなくなった。
それより4年ほど前、
6代将軍・家宣(家継の父)は、亡くなる直前に
次の将軍候補として、
御三家筆頭の家格である
尾張徳川家の4代藩主・吉通の名前を挙げていた。
しかし、
1712年11月に家宣が亡くなると、
1713年7月には、吉通も25歳の若さで急死してしまう。
そうこうして、1716年に8歳の家継も亡くなる。
将軍継嗣問題は、
継友、優勢で始まるも、
吉宗は、
大奥・月光院(家宣の側室、家継の母)、水戸藩、近衛基熈(天英院の父)、
の抱き込みに成功、
最後は、
継友の後ろ盾であった
大奥・天英院(家宣の正室、継友の義理の叔母)の支持も取り付け、完全勝利。
こうして、
吉宗は、徳川幕府、第8代将軍へ。
相次ぐ継承権上位者の死、
吉宗は、とってもラッキーマンだったのだろうか。