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新日本プロレス3大暴動事件②INOKI闘魂LIVE PART2での海賊男乱入

新日本プロレス 10大事件の真相 (別冊宝島 2250)

 1987年(昭和62年)3月26日、大阪城ホールで開催された「INOKI闘魂LIVE PART2」のメインイベントは、「アントニオ猪木(当時44歳) 対 マサ斎藤(当時45歳)」でした。1987年は、「アントニオ猪木 対 マサ斎藤」の年と言っていい一年で、この年、4度のシングル戦が実現しており、この「大阪城ホール」の対戦は、その初戦でした。

①1987年3月26日大阪城ホール
②1987年4月27日東京両国国技館(ノーロープ手錠マッチ)
③1987年6月12日東京両国国技館(IWGPヘビー級王座決定戦)
④1987年10月4日巌流島決戦

 

プロレス「監獄固め」血風録―アメリカを制覇した大和魂

●マサ斎藤の1987年3月26日に至る動き

 マサ斎藤は、1984年秋に長州力率いる「ジャパン・プロレス」に合流し、1984年9月21日、長州力新日本プロレス離脱に伴い、長州力と共に全日本プロレスを主戦場に移していたが、遠征中の米国ウィスコシン州で起きた乱闘事件に巻き込まれます。結果、1985年6月に有罪判決が下され、1986年12月2日に出所するまで1年半の間、収監されてしまいます。(ちなみに、この収監中に開発した必殺技が「監獄固め」と云われています)出所後、ジャパン・プロレス所属のままアントニオ猪木に宣戦布告。この大阪城ホールの対戦は、恐らく1979年昭和54年5月16日の第2回MSGシリーズ決勝リーグ戦以来の8年ぶりのシングル戦ではないか(!?)と思われます。

●アントニオ猪木とマサ斎藤の関係

 マサ斎藤が1942年生まれで、アントニオ猪木が1943年生まれなので、マサ斎藤が年齢は、ひとつ年上ですが、日本プロレス入門とプロレスデビューは、猪木が1960年2月入門で9月デビュー。マサ斎藤が1965年4月入門で6月デビューなので、プロレスでは、猪木が5年先輩にあたります。1966年に旗揚げした東京プロレスに、立場は違いますが(「猪木=エース」「マサ斎藤=期待の大型新人」)一緒に移籍しています。1967年に東京プロレスが潰れてしまい、猪木は日本プロレスに出戻り、マサ斎藤は単身アメリカへ旅立ち、2人の接点はなくなってしまいますが、アントニオ猪木が日本プロレスを除名され、1972年に新日本プロレスを旗揚げすると、マサ斎藤は、1974年から新日本プロレスに参戦し、この年の「第1回ワールドリーグ戦公式戦で、シングル初対決が実現しています。プロレス専門誌『G SPIRITS』49号の中では、タイガー服部が2人の関係を「マサさんは何かやっぱり…気持ち的に猪木さんに惹かれるものがあったんだろうね。2人に何か密約があったのかどうかは知らいないけど、何かあるといつも猪木さんの傍にマサさんがいたよね。東京プロレスに行った時から、マサさんの原点にはいつも猪木さんがいたような気がする。あの2人の関係は不思議。何だか面白いよ。」と語っています。

  

 

 

 そして、この大阪城決戦で事件が起き、結局それが2回目の大暴動事件に発展してしまいます。

●何が起きたのか。

 試合開始から20分過ぎに「謎の海賊男」が乱入し、マサ斎藤に手錠⇒一旦控室に⇒場内騒然⇒マサ斎藤復帰後、手錠で猪木を殴打⇒猪木、流血⇒レフリー注意⇒マサ斎藤、レフリーに暴行⇒猪木の反則勝ち。

 この裁定に納得のいかない一部ファンが暴走し、会場に放火。大阪府警、大阪機動隊、消防車が出動する事態に陥り、1984年以来、新日本プロレス2回目の大暴動事件となりました。

 本来「海賊男」は猪木の敵でしたが、なぜか、味方のマサ斎藤に手錠をかけるという不可解な行動がこの暴動の引き金だと云われています。なぜ、そのようなことが起きてしまったのか?実際の予定は、海賊男が猪木に手錠をかけるというアングルらしかったのですが、当日「海賊男」に扮した、1981年にメキシコから新日本プロレスに留学していたクロネコ(ブラック・キャット)が、なぜか勘違いをしてマサ斎藤に手錠をするという痛恨のミスをしてしまったそうです。

●海賊男のその後

 大暴動を引き起こした「海賊男」。そもそも、この海賊男のキャラクターは猪木の考案で、最初の出現は、1987年2月10日アメリカ・フロリダ州タンパでの武藤敬司の試合で、中身は猪木本人だったそうです。そのためもあってか、この暴動から3か月後の6月9日の大阪府立体育館では、アントニオ猪木&高田延彦 対 マサ斎藤&海賊男のタッグマッチ(15分41秒高田を体固めで海賊男の勝利)、その後も執拗な襲撃を繰り返させ(名前もビリー・ガスパーに決定。増殖してガリー・ガスパー、バリー・ガスパーも登場し。ガスパーズを結成。)、翌1988年3月19日東京後楽園ホールでどうにか一騎打ちまで実現させるも、人気が出ないまま、1988年8月にガスパーズは解散しました。ちなみにガリー・ガスパーの正体は、ボブ・オートン・ジュニアだと云われています。WWEのスーパー・スター、ランディ・オートンのお父さんです。

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両腕に黥の人がランディ・オートンです。

 

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