アントニオ猪木
身長191㎝。体重105㎏。日本プロレス時代には、ジャイアント馬場とタッグを組んで「BI砲」を結成。1971年日本プロレスから追放され、1972年に新日本プロレスを創設。
ジャイアント馬場
身長209㎝。体重135㎏。読売巨人軍の元投手(1軍成績/3登板0勝1敗)。力道山亡き後、日本プロレスのエースに。その後、独立し、1972年全日本プロレスを創設。
ジャイアント馬場とアントニオ猪木は、全日本プロレスと新日本プロレスを創設以後、対戦が望まれたものの、結局、対戦することはありませんでしたが、実は若手時代に対戦しています。
ちなみに馬場と猪木は、1960年9月30日、同じ日に東京台東区体育館で、それぞれデビュー戦を行っています。デビュー時、馬場正平は22歳で、猪木寛至は17歳でした。馬場正平の対戦相手は、田中米太郎で「股さき」により馬場の勝利。一方、猪木寛至の対戦相手は、大木金太郎で、7分9秒、「逆腕固め」により、猪木のギブアップ負け。
●初対決
馬場正平と猪木寛至の初対決は、デビュー戦から8カ月後の1961年5月25日富山市体育館で行われました。10分00秒で、馬場が猪木をフルネルソン(羽交い絞め)で締め上げ、馬場正平のギブアップ勝利。初対決は、馬場正平の勝利に終わります。
その後、馬場正平が1度目の海外遠征に出たため、1961年7月1日~1963年3月17日までの1年8カ月は対戦がありませんが、凱旋帰国後、再び対戦が始まり、1963年10月2日(足利市)を最後に計16度の対戦がありました。
【結果】デデデデデデデデデデデデデン!馬場正平の16連勝
1963年時点では、馬場正平は、アントニオ猪木とって遠く及ばない存在でした。その後も対戦は実現しなかったため、結局、アントニオ猪木は、一度もジャイアント馬場に勝利することなく、ふたりの対決は終わってしまいました。