1972年に新日本プロレス設立。1972年3月6日の大田区体育館での旗揚げ戦以後、アントニオ猪木にシングル戦で勝った日本人は、何人いるのか?
①大木金太郎
1975年4月4日 東京蔵前国技館
猪木32歳。第2回ワールド・リーグ戦の公式戦初戦。新日本設立後の大木金太郎との通算成績は、アントニオ猪木の1勝1引き分けで、この日が通算3度目の対決。試合前に入場時に猪木がK・K・クラップ(第1回大会の準優勝者)から襲撃を受け、試合開始。ゴングと同時にラッシュする大木は、場外でもヘッドバット連発し、1分16秒リングアウト勝ちを収めた。※ただ大木金太郎は韓国人のため、このくくりには入らないかもしれません。
●大木金太郎
韓国出身。力道山を慕い、1959年日本プロレスに入門。猪木の一年先輩にあたり、猪木のデビュー戦の相手を務めた。
②ラッシャー木村
1981年10月8日 東京蔵前国技館
猪木38歳。この年、国際プロレスが崩壊したため、ラッシャー木村、アニマル浜口、寺西勇は、「国際プロレス軍団」として新日本プロレスに参戦。9月23日田園コロシアムの「こんばんは」事件を経て、この日が猪木 対 木村の初対決。試合は、猪木の暴走で、ラッシャー木村の10分35秒反則勝ち。ちなみに1か月後の11月5日、シリーズ最終戦となる東京蔵前国技館での再戦は、15分8秒、TKOで猪木の勝利で決着。
●ラッシャー木村。
北海道出身。1964年日本プロレス入門。その後東京プロレスを経て、国際プロレスへ。国際プロレスでエースとなり、IWA認定世界ヘビー級王者になる。
③ラッシャー木村
1982年2月9日 大阪府立体育館
猪木39歳。ラッシャー木村との3度目の対決。セコンドのアニマル浜口の介入により、12分37秒、ラッシャー木村のリングアウト勝ち。ラッシャー木村が2勝目を記録。このあと9月21日に「負けた方が髪を切る」という日本初の「髪切りデスマッチ」へ。猪木が勝利するも、ラッシャー木村が髪を切らなかったため、猪木 対 国際プロレス軍団の1対3の変則タッグマッチへと発展。TV視聴率も3週連続20%超えするほどの人気を集めた。
このあたりの話が『劇画プロレス地獄変』の第14話「はぐれ国際軍団ラッシャー木村 男の涙酒」として収録されています。作者は『プロレススーパースター列伝』の原田久仁信です。
④長州力
1988年7月22日 札幌中島体育センター
猪木45歳。IWGP王座挑戦者決定リーグ戦の公式戦初戦で激突。長州力が新日本プロレスに入団してから16年目、通算10度目の対戦。猪木の背後を襲う延髄にラリアットを放ったあと、正面からラリアットを決めて、7分55秒ピンフォール勝ち。初対決から12年目にして長州力が完全勝利を収めた。恐らくアントニオ猪木が日本人にピンフォール負けするのは、日本プロレス時代の1963年(猪木20歳)以来ではないかと思われる。
⑤長州力
1988年10月19日 静岡産業館
猪木45歳。「闘魂復活7番勝負」の第4戦。14分34秒、アントニオ猪木がレフリーの制止を無視し、長州力の反則勝ち。猪木は、長州とのシングルマッチで2連敗。
⑥長州力
1989年2月22日 東京蔵前国技館
猪木46歳。猪木は対長州戦2連敗中。試合はリキ・ラリアット6連発で15分29秒体固めで、長州力の完全勝利。猪木は、長州戦まさかの3連敗。結局この試合が最後の長州とのシングルマッチとなった。通算成績は猪木の9勝3敗。
⑦天龍源一郎
1994年1月4日 東京ドーム
猪木51歳。天龍源一郎とのシングル初対決。試合開始3分過ぎに、猪木が魔性のスリーパー・ホールドで天龍を失神させるも、長州の喝により蘇生。15分56秒パワーボムからの体固めで、天龍源一郎がピンフォール勝ち。猪木は、5年ぶりに日本人プロレスラーに敗北。天龍源一郎は、馬場と猪木からピンフォールを奪った唯一の日本人選手となる。
まとめ
1972年新日本プロレス設立後、アントニオ猪木に勝った日本人は、何人いるのか?
4人(ただし大木金太郎を除いた場合は3人)