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『平家物語』の「源義経」像

源義経
https://th.bing.com/th/id/OIP.cr6vI4HbRuoCsh-1cNPb6AHaI4?w=147&h=180&c=7&r=0&o=5&pid=1.7

現在では、
「悲劇のイケメン・ヒーロー」のイメージが強いですが、
2005年大河ドラマ義経滝沢秀明          学研漫画『源義経
https://th.bing.com/th/id/OIP.h-tiWAz2XtaixOFHzH1RMgHaE8?w=265&h=180&c=7&r=0&o=5&pid=1.7 https://th.bing.com/th/id/OIP.-Rdnc8dIxd0s64CUUWag7AAAAA?w=121&h=180&c=7&r=0&o=5&pid=1.7
1966年大河ドラマ源義経尾上菊之助
https://th.bing.com/th/id/OIP.guNlFm3PB_AbzFfD8fFZSAHaEE?w=335&h=184&c=7&r=0&o=5&pid=1.7

平家物語」では、
決して「イケメン」としては描かれていません。

平家物語」では、
義経の容貌を

色しろうせいちいさきが、
むかばのことにさしいでて、
しるかんなるぞ

と描いています。

簡単にいうと、「色白」「小柄」「出っ歯」です。

「出っ歯」でも、「イケメン」は、いると思うので、
「イケメンの可能性」を残すなら、
「正統派イケメン」というよりは、「個性派イケメン」なのかもしれません。

☟こういった感じでしょうか。
https://th.bing.com/th/id/OIP.vaLvf868hqGVWIDF_LwzBQHaHa?w=198&h=199&c=7&r=0&o=5&pid=1.7 https://th.bing.com/th/id/OIP.33iHQVEs3hvgKgJOBsmPKgAAAA?w=118&h=180&c=7&r=0&o=5&pid=1.7 https://th.bing.com/th/id/OIP.mOtWfbth1BJN1xzlfXyg7AHaHd?w=169&h=180&c=7&r=0&o=5&pid=1.7

あと
「イケメン」には、関係ありませんが、
「小柄」だったそうです。

調べてみると、
「147㎝」というのがよく出てきました。

また、
昔、何かの本で、
「125㎝」というのを見たことがあります。

こちらも調べてみると、
義経が幼少期に過ごしたと云われる「鞍馬寺」に
「背比べ石」というのがあり、
その石の高さが「120㎝」程度だそうです。
https://th.bing.com/th/id/OIP.X9jktCEpNng1nAc3ipu0LAHaFj?w=224&h=180&c=7&r=0&o=5&pid=1.7

「125㎝」というのは、そこから出た記述かもしれません。


確かに
「扇の的」の次の場面「弓流し」でも、
義経=小柄」を感じさせる表記があります。
https://th.bing.com/th/id/OIP.sfBo7Dwsa36Jv9SdrSkh3AHaDd?w=349&h=163&c=7&r=0&o=5&pid=1.7

原文
義経が弓といはば、二人しても張り、もしは三人しても張り、叔父の為朝が弓のやうならば、わざとも落として取らすべし。
おう弱たる弓を敵の取り持つて、『これこそ源氏の大将九郎義経が弓よ。』とて、嘲哢せんずるが口惜しければ、命にかへて取るぞかし。

意訳
叔父の為朝のような強弓だったら、わざと落として、敵を驚かせよう。
(だけど、自分のは違うから、)
自分の「弱弱しい弓」を拾った敵に馬鹿にされたら、悔しくて我慢できん。だから、命に代えても取りに行ったのだ。」


叔父の為朝
源為朝
=頼朝・義経の父「義朝」の弟。
https://th.bing.com/th/id/OIP.CPdGg-7U44dg2jrmRQiKjwHaLI?w=198&h=298&c=7&r=0&o=5&pid=1.7

身長200㎝級の超マッチョな「つわもの」。
保元の乱」では、父と共に「崇徳上皇」側に参加して、敗戦。
その後、いろいろあって、最終的に自害。

弓は、「五人張り(=最強)」で、
矢は、「十八束」だと云われています。

「十八束」は、「拳18個分」の長さです。
那須与一」は、「十二束三伏」と言っているので、
「為朝」の方が「与一」よりも「拳6個」ぐらい長い矢です。



義経の話」に戻ります。

また
源平合戦」当時、義経の評判は、よくありません。

戦い方に問題があったようです。

当時の合戦には、
いろいろ「マナー」があったようですが、
義経は、「マナー軽視(=ルール違反)」の傾向にありました。

故に「義経軍団=常勝軍団」となるのですが。

【主なマナー違反】

①奇襲。

当時、
「日時・場所の決定~矢合わせをする」という「マナー」があるので、
「奇襲」は、「マナー違反」です。

「三草山の戦いの夜襲」や
「一の谷の戦い」での「鵯越の崖からの奇襲」が有名です。
https://th.bing.com/th/id/OIP.SnojZSuB6qN-Ahn6GlCeUwAAAA?w=260&h=180&c=7&r=0&o=5&pid=1.7


②船の漕ぎ手を殺す。

源平合戦では、

平家側は、
京の家を捨て、引っ越しながら(!?)、戦っているので、
その家の従者も戦場に同行しています。

「扇の的」で、
「扇」を竿に立てた「年若い女房」は、そういう人だと思われます。

従者は、基本、非戦闘員になります。

そのため、
この者たちは、殺さないというマナー(ルール)があったそうです。

船の「漕ぎ手」は、従者が担ったため、「原則は、殺さない」のですが、
義経軍は、
船を止めるため、よく「漕ぎ手」を射殺したそうです。



ただ「合戦マナー」といっても、

源平合戦」より過去の大きな戦いは、

1156年保元の乱
1159年平治の乱
1177年鹿ケ谷の陰謀
1180年から治承・寿永の乱

21年程さかのぼる「保元・平治の乱」かと思います。
しかも、
「保元・平治の乱」は、それほど大規模な「合戦」ではないともいいます。

大規模である「源平合戦」に参加した「ほとんど」は、
「合戦ルーキー」だったと思われるので、

「合戦マーナー」は、どこまでがどこまでだったのか、分かりません。



その辺りのことが

「扇の的」の最後の

「あ、射たり」と「情けなし」に

現れているのかもしれません。


結果として、

義経」は、
合戦勝利の立役者にも関わらず、
鎌倉幕府」に迎え入れられることなく、
奥州平泉で「悲劇的な最後」を迎えます。


義経簡単年表】

1183年(25歳)源平合戦に登場。
1184年(26歳)合戦で大活躍。
1185年(27歳)3月24日、壇ノ浦にて終戦。4月24日、京都に凱旋。
1186年(28歳)頼朝と衝突。
1187年(29歳)奥州へ脱出。
1188年(30歳)奥州に到着。
1189年(31歳)6月15日藤原泰衡の襲撃を受け、奥州にて自害。31歳