現在では、
「悲劇のイケメン・ヒーロー」のイメージが強いですが、
2005年大河ドラマ『義経』滝沢秀明 学研漫画『源義経』
1966年大河ドラマ『源義経』尾上菊之助
「平家物語」では、
決して「イケメン」としては描かれていません。
色しろうせいちいさきが、
むかばのことにさしいでて、
しるかんなるぞ
と描いています。
簡単にいうと、「色白」「小柄」「出っ歯」です。
「出っ歯」でも、「イケメン」は、いると思うので、
「イケメンの可能性」を残すなら、
「正統派イケメン」というよりは、「個性派イケメン」なのかもしれません。
あと
「イケメン」には、関係ありませんが、
「小柄」だったそうです。
調べてみると、
「147㎝」というのがよく出てきました。
また、
昔、何かの本で、
「125㎝」というのを見たことがあります。
こちらも調べてみると、
義経が幼少期に過ごしたと云われる「鞍馬寺」に
「背比べ石」というのがあり、
その石の高さが「120㎝」程度だそうです。
「125㎝」というのは、そこから出た記述かもしれません。
確かに
「扇の的」の次の場面「弓流し」でも、
「義経=小柄」を感じさせる表記があります。
原文
義経が弓といはば、二人しても張り、もしは三人しても張り、叔父の為朝が弓のやうならば、わざとも落として取らすべし。
おう弱たる弓を敵の取り持つて、『これこそ源氏の大将九郎義経が弓よ。』とて、嘲哢せんずるが口惜しければ、命にかへて取るぞかし。
意訳
叔父の為朝のような強弓だったら、わざと落として、敵を驚かせよう。
(だけど、自分のは違うから、)
自分の「弱弱しい弓」を拾った敵に馬鹿にされたら、悔しくて我慢できん。だから、命に代えても取りに行ったのだ。」
身長200㎝級の超マッチョな「つわもの」。
「保元の乱」では、父と共に「崇徳上皇」側に参加して、敗戦。
その後、いろいろあって、最終的に自害。
弓は、「五人張り(=最強)」で、
矢は、「十八束」だと云われています。
「十八束」は、「拳18個分」の長さです。
「那須与一」は、「十二束三伏」と言っているので、
「為朝」の方が「与一」よりも「拳6個」ぐらい長い矢です。
「義経の話」に戻ります。
戦い方に問題があったようです。
当時の合戦には、
いろいろ「マナー」があったようですが、
義経は、「マナー軽視(=ルール違反)」の傾向にありました。
故に「義経軍団=常勝軍団」となるのですが。
【主なマナー違反】
①奇襲。
当時、
「日時・場所の決定~矢合わせをする」という「マナー」があるので、
「奇襲」は、「マナー違反」です。
「三草山の戦いの夜襲」や
「一の谷の戦い」での「鵯越の崖からの奇襲」が有名です。
②船の漕ぎ手を殺す。
源平合戦では、
平家側は、
京の家を捨て、引っ越しながら(!?)、戦っているので、
その家の従者も戦場に同行しています。
「扇の的」で、
「扇」を竿に立てた「年若い女房」は、そういう人だと思われます。
従者は、基本、非戦闘員になります。
そのため、
この者たちは、殺さないというマナー(ルール)があったそうです。
船の「漕ぎ手」は、従者が担ったため、「原則は、殺さない」のですが、
義経軍は、
船を止めるため、よく「漕ぎ手」を射殺したそうです。
ただ「合戦マナー」といっても、
「源平合戦」より過去の大きな戦いは、
1156年保元の乱
1159年平治の乱
1177年鹿ケ谷の陰謀
1180年から治承・寿永の乱
21年程さかのぼる「保元・平治の乱」かと思います。
しかも、
「保元・平治の乱」は、それほど大規模な「合戦」ではないともいいます。
大規模である「源平合戦」に参加した「ほとんど」は、
「合戦ルーキー」だったと思われるので、
「合戦マーナー」は、どこまでがどこまでだったのか、分かりません。
その辺りのことが
「扇の的」の最後の
「あ、射たり」と「情けなし」に
現れているのかもしれません。
結果として、
「義経」は、
合戦勝利の立役者にも関わらず、
「鎌倉幕府」に迎え入れられることなく、
奥州平泉で「悲劇的な最後」を迎えます。
【義経簡単年表】
1183年(25歳)源平合戦に登場。
1184年(26歳)合戦で大活躍。
1185年(27歳)3月24日、壇ノ浦にて終戦。4月24日、京都に凱旋。
1186年(28歳)頼朝と衝突。
1187年(29歳)奥州へ脱出。
1188年(30歳)奥州に到着。
1189年(31歳)6月15日藤原泰衡の襲撃を受け、奥州にて自害。31歳