もう「答え」から言います。
文章教材に関して言うと、
「教える内容がはっきりしていない」からです。
国語の授業で、
教える担当者によって、ガラッと内容が変わってしまう。
「そんな体験あるヨ」という人は、
少なくないでしょう。
それは、
「教える内容がはっきりしていない」ためです。
興味のある方は、お読み下さい。
では、始めから。
国語教科が取り扱う文章は、
大きく「文学的な文章」と「説明的な文章」に
分けることが出来ます。
どちらの文章にも、
教材として扱う場合、欠点があります。
とくに
文学的な文章は、
学校で教える教材として、相応しくないと
taketakechopは、考えています。
それは、
「『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。』の
素晴らしいところを言えますか?」でも
書きましたが、
日本の文学で、
素晴らしいと考えられる作品は、
10人の読者が
異なる10通りの感想を持つことができる作品です。
このような特徴を持つ文章を
教材として、
40人程の人数で、
授業を成立させるためには、
授業をする側も、
授業を受ける側も、
相当の実力を必要とします。
公立中学校の各教室では、
当然、
この条件は、満たされません。
そもそも教材に難がある上に
教える内容がはっきりしていないなんて、
もうこれは、恐怖です。
教える内容がはっきりしないとは
例えば、
こういうことがありました。
5年以上の経験を持つ教師30人程の研修会で、
『走れメロス』の主題 *1 が何か話し合うことがありました。
ところが、
誰も、答えれませんでした。
勿論、それっぽいことを言う人は、いましたが、
誰もが納得する答えでは、ありませんでした *2 。
それは、なぜかというと、
理由があります。
『走れメロス』を教材として、
取り扱うときの主題は、
「信頼・友情」と教科書会社によって、
決められています。
勿論、
教科書会社は、文部省の検定を受けているので、
政府がこの主題で「OK」だと言っているわけです。
しかし、
「人を信じることの大切さ」
「人を疑うことの不道徳さ」
「人間は、弱い者だから、裏切りそうになることもある」
このような
一定の価値観を一教科の中で断言することは、
なんだか恐ろしく感じます*3 。
そうなると、
「時と場合によっては、
人を必ず信じなければならないわけではないよ。」
「時と場合によっては、
人を疑うこともあるでしょ。」
「時と場合によっては、
人を裏切っても、仕方ないかもしれないね」などと
一定の価値観を断言するのを避けます。
で、結局、
授業をする側は、
「何を言えばよいのだろう!?」となり、
当然、
授業を受ける側は、
「あの教科担当者は、
何が言いたかったのだろう!?」となり、
お互いがお互い、
負のスパイラルへとハマっていきます。
兎にも角にも
文学的文章の内容を深めるということは、
難しい作業です。
説明的な文章にも、同じことが言えます。
昔、
『五重の塔はなぜ倒れないか』という教材文がありました。
『五重の塔はなぜ倒れないか』で、
伝えたいことは、
「どうして五重の塔が倒れないのかというメカニズム」です。
説明的な文章は、
文学的な文章に比べて、
書かれていることが明確で、
読み手に伝えたいこともはっきりしていますが、
内容を深めれば、深めるほど、
国語で取り扱う内容とは、
かけ離れてしまうというジレンマが起こってしまいます。
「国語で取り扱う内容=建築物が倒れないメカニズム」だとは、
到底思えないということです。
以上の理由から、
国語教科では、
文学的文章にしても、
説明的文章にしても、
書いてある内容を扱うのではなく、
書いてある形式を扱うべきだと
taketakechopは、常々思うのですが、
賛同者は、全くいません。
戦後から、
60年近く月日が流れていますが、
この間、国語教科の内容は、
なんら精査されることはありませんでした。
もし精査されてきたとう言う人がいるなら、
精査された現在の現状に、
一層、驚きを隠せません。
もうひとつ、
勉強する価値がない理由があります。
勉強をする本当の目的では、ありませんが、
勉強をする現実的な目的のひとつとして、
入試があります。
ここにおいても、国語教科は、悲劇的な状況にあります。
それは、
学校で習った国語教科の内容が入試において、
ほとんど活躍しないということです。
駄目押しですね。
ああ、なんたることか、
勉強する価値がない理由が2つもある教科なんて…。
皆が皆、全ての人が
国語教科を学習して良かったと
思える日が来ることを願う今日この頃です。